昭和44年03月18日 朝の御理解



 御理解 第70節
 「人間は万物の霊長であるから、万物を見て道理に合う信心をせねばならぬ。」

 例えば男と女と言うてもそうですね。そこにあるものないもの、それが二つがあって始めて一つの事が出来る。いわばその陰と陽とが一つになると言うか、なって初めて本当の結合が出来てこそ、ひとつのものが形作られるのです。ですから人間は万物の霊長であるからと言うても、いわゆる足りないものだらけ銘々がね。そこで万物を見て道理に合う信心をせよと。まぁ信心をせなばならんとこう仰せられる。そこでここに初めてそのあいよかけよという事になって来る。
 いわゆる人間の人と言う人という字が、あいよかけよと言う事を現したものだと、こう言われております。一人では立ち行きが出来ない。そこにこう誰かに支えてもらわなければ立ち行かない。俺は俺一人でやっていくと言うけれども、実際はそうではない。全てのそういう支えというものがあって、私共が立ち行っておるのである。それを例えば御道の信心で申しますと、先生と信者の場合でもそうである。
 先生は先生の立場で、信者は信者の立場で、まぁ言うならば先生の祈りに支えられて、そして先生の手にもならせて貰おう、足にもならせて貰おうと言う所から、生れて来るのがおかげである。そこの所の道理というものがある。崩れて来る所にいわゆる破城がある訳です。先日の久留米の大祭の時にも、鹿児島の行徳先生が言うておられたように、先生が何もかにもするところでは、決して御比礼は立たないとこう言う。してみると出来ないという事の方が、私のように出来ないという事の方が多からいい。
 先生が何も出来んから出来んところを信者が補うていく。いわゆる私の手になり足になっていく。私も何にも出来んから皆んなの事を、一生懸命お願いをする力が出来る者よりも強い。まぁ強くなる訳である。そこにです人間の知恵とも力とも思われぬような、働きが生れてきておる。私のこの御造営なんかでもそうである。何でも出来ると言う事がおかげのようであるけれども、出来ないと言う事もまたおかげである。いやむしろ出来ないことの方がおかげを受けておる。
 先日からも大変にややこしい事務を、久保山さんと高橋さんとがやっておられましたが、はぁ他所の教会の先生達は、これをみんな教会の先生達でやりござる。とてもこりゃ本当私達で出来る事じゃないなと。経理事務でした。けれどもそれを例えば一つの自分がやらんならんと思うて、その事務を自分がやるとするか。それは経理事務の事ですから、もう金銭の事。私に例えばこれは信者に見せちゃならん。これは信者にさせちゃならん。自分がせにゃこてこれは馬鹿らしかと。
 いう様な私に思いがあったらとてもやらせられない事である。まぁ金銭なら金銭でも、自分で自由なら自由に出来るお金と言った様なものが、こうまぁいうなら私腹を肥やすと言った様な気持ちがあるなら、そんなもう何からかにまでの事務なんかされん。任せられない。何もかにも分かってしまっていわゆるガラス張りの生活というか、ガラス張りの事ですから。毎日これだけのお下がりがあって、これだけのそれを御本部と何かどこかへ出さなきゃいけない。
 もうその綿密にその計算をそのやって、それをまぁ書類を作っておられるです。それでいてほんなら私は窮屈な生活をしておるかというと、一つも窮屈な生活はしてない。そこから不思議な働きが生れて、不思議なおかげを頂いておる。これは私はある先生の御本部参拝の時でした。丁度窓の所へあのう元そこの教会に参りよった信者さんという人がやって来ておる。それでその先生これはお初穂でございますと言うて、片一方のこちらは先生が本部にお出でられると、これは先生のお小遣いでございますと言うて。
 こうやっておる。そこんところを例えばお初穂と自分の貰うた御礼なんて言うのがありますよね。例えば昨日のここで伊藤さんのお祭りがありましたが、お初穂と神様の御礼と、これは親先生と言うて親先生に対する御礼がありますよね。これは私が貰うたんだからと言うて、これは私が自由にしようとも思わない。もうここで収入があるものならそれを全てが、例えば裏の方でまぁボロ屋さんに空瓶なんかを売ったとする。それもやはりみんな神様がここに集めて下さったんだとして、それが全部こう出される。
 これは御礼だけん自分が持っとこう。内緒に使う事も要らなければ、まぁ内緒にしとく事も要らん。全部それを神様の御物として、例えばそれを経理なら経理のほうへ廻してしまう事が出来る。そこに例えばそういうややこしい事務を担当しておる人。またそれをしてもらっておる私。そこにあいよかけよの働きというものが、どういう事になるかというとね。私には全然不自由のないおかげというものが頂いてておる。
 今度例えば娘が嫁入るという事になりゃ、それこそ私共には想像もつかん何百万という金が企画されておって、それがそのそのう企画されたから、さらにならその結婚費に誰が幾ら出さんならんという事でもない。それがもう着々としてです出来て行きよる。そこにその不思議な働き不思議な力というかね。例えば今の一番の例がここの御造営の例である。お互いがないもの足りないものそれを出し合うていく。私は何も出来んからお取次させて頂く以外にゃない。祈る以外にゃない。
 みんなはその人の手になり足になって、一生懸命御用を頂く。そういう一つの麗しいと言うかね、そういう美しい情景と言うか、そういうものが神の機感に叶う。神の心に叶うね。親先生があなたのおかげでと。いやぁあなた達のおかげで。私はこのうそんなお取次ぎを実際させてもらってから、本当にそうだなぁとこう思った事がある。もう亡くなられましたむつ屋の田代さんが、ある時にお参りさせて頂いて、親先生もう本当にもう、親先生あって、現在のむつ屋が立っておりますとこう言われる。
 それで成程むつ屋が立っておるのは、親先生のおかげかも知れんけども、ならその当時椛目、椛目が立っていっておるのも、田代さんあなた方のおかげだと。そこに余るものと足りないものね。それが具合良くちょうど歯車の様に噛み合って行っておる。だからこそ次の大きな歯車がまた回うていきよる。その次の大きな歯車がまた回うていっていきよる。そこからですそこから大きな力大きな働きというものが生れて来る。普通では動かす事の出来ないものが動いてくる。普通では考えも及ばない様な事が出来て来る。
 勿論私共はその完璧を目指すと言うかね。けれどもそれはどういう事かというと、そういう事がいよいよ分からせて頂くと言う事なんです。もう俺は私はほんなら男だから、もう女のお世話にならんでええと。私は女だからもう男のお世話にならんでええと。子供の世話にならんでええと。誰の世話にならんでもいい。というのではなくてです。私はそういう事が分らせて貰い出来る事が、私は万物の霊長だと思う。他の幾ら楽しみを持っておると言うても牛やら馬では出来ません。
 そのところが出来るのはやはり人間であります。ですから例えば私と皆さんの場合でも、私が願ってやりよるから、私がお取次ぎさせて頂きよるから、あんた方が助かっとる。という事でもなからなければ、私がこう言うややこしい御用でも、私がしとるから合楽が立っておると。私がおらなければ困る。私がここでこういう御用を頂いておるから、というところからはもうすでに破綻が生ずる。回らなくなって来る。先生あなたのおかげで、いや皆さんのおかげでと。そこに私は、あいよかけよの道ね。
 私はこの人間は万物の霊長であるから、万物を見て道理に合う信心と、と言う様な意味合いを、ま、他に色々な角度から、この道理に合うという事を、例えば迷信的な事を人間が言うておるということは可笑しいじゃないかと。と言う様な意味合いにおいて何時も道理に合うと言う信心。金光様の信心はそういう意味合いで、なるほど正しい信心である、名教であると言う所以が、その辺にあるんだと言う風に説くのですけれども。今日はその、万物の霊長であるという事はです。私共が足りないもの同士がです。
 そこに拝み合うていくというか、支え合うていくと言うところからです、不思議な不思議な働きが生れて来る。お野菜を作らせて頂いても、自分が種を蒔いて、自分が水をやったり肥料を施したり草を取ったりして、立派に野菜が出来た。これは私が作ったと言うところにはね、より不思議なと思われるような働きにはなって来ないです。そこに信心を分からせて頂いて、金光大神様のお取次ぎによって、天地金乃親神様のお恵みがあって、神様この様な素晴らしいお野菜が出来ましたとお礼を申し上げる時に。
 神様もまたそうじゃ俺が作ってやったと仰らない。いわゆる氏子あっての神と仰せられる。いやいや氏子が種を蒔いたりねを取ったり、肥料を施したり言うなら虫を取ったりして、手を入れたから出来たんじゃ。いいえ神様のおかげ無しには出来る事は出来ません。そういう神様と氏子がですあなたのおかげで氏子のおかげでとね。いわゆる氏子あっての神と仰るところを、私共が神様あっての私共だと言う信心。そういう中からです私は人間の知恵力では及びもつかないものが、そこから生れてくる。
 そこの所の噛み合い。それを小さい歯車でありましても、その歯車がまた次の大きな歯車にこうきちっと合うていく。そして天地を動かすような歯車がです回うようになる。このような道理。このような道理をひとつ分からせ合うて、そこんところを「お前はそげな事でどうするか、そげな事は出来んじゃないか」。出来んなら出来んところを、それが例えば子供であるならば親がなしていく。本当にもう家の親ばかりはと、家の親の足りないところを子供が補うていく。しかもそれが拝み合う思いで補うていく。
 主人の事親の事は子が願い、子の事は親が願いと仰るが。主人の事は家内が願い家内の事は主人が願うて願い会うていく。その願い合うてい、その美しい心、美しいその姿というものが、いわゆる神の機感に叶う神の心に叶う。それが動かす事の出来ない筈のものが動いてくる。そうでしょうが。例えばほんなら自分の親だってです。完璧でない証拠には子供から見て、まぁうちのお婆ちゃんばかりは、家のお爺ちゃんばっかりは、もうあそこをいっちょ改むると良かばってんと、子供が思うところもありましょうが。
 いくらうちの息子はと言うて信用してると言うてもです、うちの息子もあそこばいっちょ改めてくれると、まぁだ良かばってんというところがあるでしょうが。掛け替えのない息子である。息子だからと言ったってやっぱり親から見りゃ、あそこも足りないここも足りないところばっかりでしょうが。足りないところを詫びていく。足りないところを親が補うていく。だから自分も気が付かんままに支えられておる。お互いがほんならそれを反対の方に見ると、また子供から親が支えられておる。
 ですから今日私が思うのにですね。そういう足りないという事の自覚です。してみるともう改まらんでいいという事じゃないですよ。そこん所を間違えんごとせにゃ。私が何ぁにも出来んから、ご信者さんが何から何にまでして下さる。なら私が出来る事がこら本当にやはり出来なきゃならんですね。そこでほんなら私がしてあげましたという事もなからなければ、私が祈ってあげましたという事もない。祈り祈られお互いがね。出来ないものを出しそこの足りないものをこう補い合うていく生活。それを拝み合いの生活。
 だから拝み合うていく生活という事が、如何に道理に合ういき方かという事が分かる。今日私はここんところをですね。「万物を見て道理に合う信心」という事に頂かねばならんとこう思います。拝み合いの生活こそが本当の意味においての、これは万物の霊長でなからなければ出来ない、道理に合う信心だという事になります。そこでほんなら家内に不足を何時も感じておる。主人に何時も不足を感じておる。信者に何時も不足を感じておる。親先生に何時も不足を感じておる。
 これではそこの教会が御比礼になる筈もなからなければ、その家が繁盛する筈がない。何故って根本的に道理に合うてない、そこの所の道理をお互い分らせて貰ってね、本当にその事を拝んでいくと言う事。その事を拝み又合うて行くと言う事。是が私は道理に合う信心の第一だと今朝私は思わせて頂いた。そこには不平不足がなくなり攻め合いがなくなる悪口の言い合いがなくなる。もう家の先生ばかりがあそこが詰まらん所じゃと思う所は、そこを信者がカバーしていきゃ良い。家の信者ばかりはもう行き届かん。
 そこん所をもう一段と強く祈っていきゃ良い。御本部参拝の帰りにある一団体の人達が、合楽の事を大変悪口言いよった。偶々合楽の信者さんがその傍に居った。こん奴はどこん奴どんじゃろうかと思うてから見よった。そしたらそこにある教会のもう亡くなられましたけれども、お爺さんの先生がもうあんまり悪口を言うもんじゃから、聞くに聞き辛くなられたんでしょうね。けれどもその当時は椛目、椛目のあの信者さん達は、その親先生に仕えておるあの姿を見りゃ、良か悪かは分かるちゅう誰ぁれんでん。
 そげなそのう何の為にあれだけ親先生を大事にしよるか。大事にされられるだけのものを持っちゃるから大事にしよる。自分達が大事にされんからと言うて、そのう他所の教会の悪口どん言うちからと言うてから、まぁ言われたという話しを横におったここのご信者さんが聴いたとう言うのである。先生方が集まる家の信者が行き届かん。そりゃあんたあんたが行き届かんとたいと例えば言われてもその先生は仕方がない。そこん所をです。私共は道理に合う信心と、それこそ水も漏らさん仲というものを作ってですね。
 きっちりこれが回うていく道理というものをです。一つが回うていきよりゃもう二の、二が回うていきよりゃ、三にっとこれが回うていく。一つの事が素晴らしい働きに繋がっていく。いわゆる天地の大きな働きに繋がって行く様な、いわゆる歯車の道理である。ここの所の道理をです、私共が故障させたり破綻に終わらせたりする事であってはならん。これがどこまでも回うていくおかげ。
 それを今日私は拝み合いとこう申しました。拝み合いという事が拝んでいく。ただ素晴らしいけん拝むじゃなくて、その足りないところも拝んでいく。足りないところは私が足していく。そこんところを相手が拝まない筈がない。家内がおってくれて主人があってくれてという事になる。そこんところをひとつお互い今日の御理解70節の中から頂きたいと思います。如何に拝み合いの生活の反対の生活がです。
 いわゆる道理に合わない第一のものであるかという事が分かります。それが出来るのは万物の霊長である人間だけだ。そのそういう出来る私共はおかげを頂いておりながらそれを実行しない。それを踏まないという事は道理にもとった生活。道理にもとった生活をして本当の良い事が生れてくる筈がない。いよいよ拝み合いの生活をいよいよ密なるものに、それこそ水も漏らさんようなものにしていくところに、信心のいわば目の詰まった信心という事が言えるのじゃないでしょうかね。
   どうぞ。